連載小説「午後の点灯式」(第27回)

ニュースリリース①
 
 紗代子は頬に伝わる涙をそのままに、沢木田の眼から視線を外さなかった。沢木田もまた紗代子の黒い瞳を、汚さないように、傷つけないように、一つしかない宝飾を見守るような気持ちで見ていた。
 二人は暫く互いの眼を見詰めて無言でいた。声を発した途端に言葉も意味も、一瞬にして空虚に霧散しそうだった。
 沢木田は紗代子の両頬を、白いおしぼりで触れるか触れないか、微妙な手つきで涙を消していた。彼女は眼を閉じて、沢木田の手の動きにされるままになっていた。
 「さよちゃん、ワイン飲もう」
 「はい」
 ゆっくり瞼を開けた彼女の瞳は、残り涙で潤んでいた。

 三月のひな祭りが過ぎた頃から日差しに暖かさが戻り、晴れた日が多く続いたまま季節はいつしか春真っ盛りの四月を迎えていた。ここ数日は初夏を思わせる微風が日に何度も街角を歩く人の頬を心地良くなぜていた。出勤時の朝の空気も澄み切るようで、街路樹の木々の葉も緑が濃くなっていた。
 沢木田と紗代子は携帯電話でメールを交わしながらも、互いに遠慮し合うような思いであの夜以来会っていなかった。沢木田からのとりとめのない、紗代子を気遣うメールに対して、彼女はその都度律義に控えめに、短く文字の行間に心温まるものを偲ばせて返信してきた。そうした時、沢木田はかってない強い思いで紗代子に会いたいという気持ちを募らせた。
 今では紗代子に深い愛情を持つ自分の心を素直に認めながらも紗代子の思いに応え、自らも愛情を注いでいくという、その一事になると、沢木田の心には強く自制を促す働きが同時に生れてくるのだった。紗代子との距離が今より近くなるのを沢木田は何よりも怖れていた。水宮と紗代子の持つ無垢ともいえる、そうした誠実さは自分には無いなと思うとともに、沢木田には何故か紗代子には、自分よりも相応しい相手がいるとの思いをいつも消すことができなかった。紗代子からの思いを、沢木田は暖かく包み込むようにして育てていくことに自信がもてなかった。紗代子に寄せる愛情の果てに、特別な理由もなく、ただ茫漠とした思いで彼女を裏切ってしまいそうな自分を怖れていた。
 出先から夕方の五時過ぎに社に帰ってきた沢木田が席に腰を降ろすと、かおりが書類を手に持ち、それをひらひらと右肩の上で振りながら、
 「部長、来ましたよ」
 と声をかけ、その書類を沢木田のデスクの上に置いた。
 K社からのニュースリリースだった。眼を通すとFFシート材を来月連休明けの五月十日から新発売する旨が、商材のいくつかの特長とともに記されていた。つづく)