連載小説「午後の点灯式」(第26回)

約束への惑い③
 
 過去に沢木田は妻の京子と渋谷駅の近くを歩いているところを取引先に見られ、後日誤解のままに冷やかされた苦い経験をしていた。
 真新しいビルの五階の夜景が見える個室に二人は向かい合って椅子に座った。
 「感じのいいお店ですね。沢木田さんは色々なお店を知ってらっしゃる」
 「この店で昨年一度接待を受けたことがあるんです。それ以来です。でも、さよちゃんの料理には負けると思う」
 「そんな・・・。おだてても何も出ませんよ」 
 「この前はすっかりご馳走になりました。本当に美味しかった」
 他人行儀な沢木田の言葉を聞こえなかったかのように、紗代子は窓の夜景に視線を移し、どこか真剣な表情に変えて沢木田の眼を見詰めると、
 「わたくし、最近とても気になっていることがあるんです」
 と言った。そして人にものを問う時に彼女が見せる、小首をいつものように右に微かに傾けると、
 「沢木田さんはこの頃、とてもわたしに遠慮をされています。それに、沢木田さんはお笑いにならなくなりました」
 と声を潜めるように言った。
 沢木田は答えようと、言葉を探したが見つからず、紗代子の淋しそうな眼を見て、沢木田も顔を曇らせた。ビールのグラスを持ち飲もうとしたがやめて、テーブルに戻すと沢木田は言った。
 「さよちゃん、僕は問題を多く抱えている人間だよ。家庭でも、ある意味仕事でもね。水宮君とはおよそかけ離れた人間だ。僕は貴女達夫婦の純真な、その清潔さをいつも眩しく感じていました。その思いは今の貴女にも同じように持っている」
 「あなたなんて言葉、沢木田さん使われるとわたし、悲しくなります。とても遠い人のようです。沢木田さんに、わたしは好意を持ってはいけないのでしょうか。水宮を愛した時には、わたしは何も苦しみませんでした。でも今はとても苦しいのです。わたしは沢木田さんに、勇気を振り絞って厚かましい女になっています。そうしないと、沢木田さんと会えないからです」
 紗代子はここまで話したのだから、胸の内にあるものを全部吐き出そうとでもするように、眼に涙を溜めながら沢木田の眼を更に見詰めながら言った。
 「わたしは沢木田さんの、わたくしへの思いは十分承知しているつもりです。でも沢木田さんはわたくしへの愛情を、いつからか殺そうとしていることにわたしは気が付きました。沢木田さんは本当にわたしと秋田に行ってくれるのでしょうか」
 紗代子の声を聞きながら、沢木田は今もなお彼女が水宮を深く愛していることを当然のように知った。紗代子はその心を持ちながら沢木田に愛情を注ごうとしていた。愛を注ぐことで生きようとしていた。                 (つづく)