連載小説「午後の点灯式」(第25回)

約束への惑い②
 
 紗代子に寄せる思いと共に、彼女の人生にこれ以上の関りを持ち続けてはいけないという思いが、沢木田の胸の内にはいつも交錯していた。秋田へ行く約束を守り切れるか心は揺れたままだった。
 その日出社すると沢木田は、朝一番で会議室に新聞と雑誌の両編集次長を呼び、かおりに語った内容と同じことを伝え、K社の動きを専門紙誌の立場で情報として、記事にはできないが口頭で流すのは構わないと話し、この件は他の部員にも明らかにしていいと指示した。
 「先程も言ったように志麻君にも伝えたことだが、情報元は明かせない。厳重にマル秘だ。頼むよ」
 「わかりました」
 二人は声をそろえて答えた。
 「今日は午後三時半に出て上野のS社の神山専務と会う。今日は社に戻らない。確認事項があったら午前中に頼む」
 「今話した、K社の件ですね・・・」
 沢木田は頷き、両次長の肩を右手で軽く叩いた。

 新宿での紗代子との待ち合わせは決まって紀伊國屋書店の二階の文庫本コーナーだった。昨年の秋に沢木田が提案したもので、早めに着いても本を探していれば時間に無駄がないというのが理由だった。読書好きの彼女はこの待ち合わせ場所を喜んだ。
 約束した時間より早めに着くと、紗代子は中央の通路沿いの立ち文庫棚に手を伸ばしていた。暖かそうな明るいベージュ色のコートに身を包んだ彼女の近くを通る客は、男女問わず、振り返ったり、立ち止まったりして、一度は紗代子に視線を送る姿が遠くからでもはっきりと見て取れた。彼女の美しさは沢木田に声をかけるのを一瞬躊躇わせる程周囲の中で際立っていた。
 側に寄りながら聞こえるか、聞こえないかのような小さい声で、
 「さよちゃん・・・」
 と呼んで、沢木田は背後から紗代子の肩に軽く手を置いた。
 紗代子は直ぐには振り向かず、沢木田の手を肩に置かせたまま、
 「沢木田さん」
 と答えてから、なおもそのままの姿勢を変えずに、肩に置かれたままになっている沢木田の手の上に、紗代子は左腕を上げて自分の手を重ね、漸く振り向くと、
 「何かお買いになります?」
 と言って、大きな瞳を輝かせるように微笑んだ。
 「いや、出ましょう」
 沢木田が予約を入れていた店までの道程を二人は無言で歩いた。紗代子は沢木田の後ろを十歩程度離れて歩いている。これも昨年に沢木田が外で会う際に紗代子との間で取り決めしたもので、業界の誰かに見られてあらぬ噂が立つことを怖れての予防策だった。              (つづく)